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さよなら、沖縄居酒屋さん

今週末(2月25日)一杯で、ぼくが通っているお店の1つ、沖縄居酒屋さんが閉店されることとなってしまいました。

昨日(2月22日)に行き、帰りがけに「今週末で閉店します」と…。

…。

ぼくは、100%外食で暮らしています。昼はリーズナブルなチェーン店を5軒、夜は焼きとん屋さん等7軒をローテーションして食いつないでいます。

沖縄居酒屋さんはそのうちの1軒。

ちなみにこのお店が好きであるポイントは3つあります。1つは「ホッピーの中が泡盛であること」。泡盛のホッピーはなんともコクがあり、それでいて意外にマイルドで美味しいのです。

ポイントの2つ目は「ゴーヤが食べられること」。いつだったかゴーヤにはがんを予防する効能があると聞き、以来、定期的に食べたいと考えていて。

そして3つ目のポイントは、「女店員さんが良い人なこと」です。

特に美人ではないけれどとてもチャーミングで、あいそがほど良く良い。

ちなみにぼくはどのお店でも、店員さんとも他のお客さんとも話しません。1人で黙々と食べたい派で。なのでその沖縄居酒屋さんでもほとんど話しませんが、その女店員さんは行くと、どこかのタイミングで1度は声をかけてくれるんです。

で、ぼくもついうれしくなり、軽く今日の出来事などを話したり。その2、3の言葉のやり取りが楽しみでもありました。

このお店は確か、5、6年前にこの街でオープン。以前は都心で営業されていたようですが、家賃が高い等が理由でしょうか、この街に移転されたのでした。

しかし、オープンして1、2年でコロナ禍が始まり、この街に来てからは大変な経験もされたことだと思います。

ところでぼくはコロナ禍が始まっても、100%外食というスタイルは崩さず来ました。しかし2020年の晩春の頃にはさすがに飲食店での食事に抵抗を感じるようになり、各店でテイクアウトするようになりました。

で、テイクアウトとなってもぼくの客単価が落ちないようにと、お酒もテイクアウトしていました。各店で定期的にボトルで焼酎を買いました。

厳密なことを言うと居酒屋ではお酒の販売は禁止されています。なので各店には「お酒も買いたいのだが良いか」と訊き、そうするとどのお店も快く売ってくれました。

この沖縄居酒屋さんでもテイクアウトしようと思った最初の日、まずは電話をしていつもの食事と泡盛のボトルを注文しました。ここは当時まだ通い始めたばかりだったので、見知らぬ客として電話をしました。

そしてそれらを取りに行くと…。

その女店員さんが、「やっぱり。声でそうかなって思ってました(^_^)」と声をかけてくれて、そこで不肖・私おーたは、彼女に恋することとなるわけです。

そして家に帰ってボトルを見ると、キープする人の名前を書くためのマジックで「いつもありがとうございます!」との伝言が。

これにもぐっときてしまったという次第です。

ただこのお店は、緊急事態宣言が出る度に休業するという選択をされたので、以後はお店には行けない時期も長くありました。

そうしてぼくの恋路も進展せず、月日は流れて…。

かくして一昨年くらいだったでしょうか、その女店員さんはマスターと結婚され、ぼくの恋路は終演を迎えます。さらにはめでたくも女店員さんのお腹に新しい命が宿り、この3月の桜が咲く頃に赤ちゃんが誕生することとなっています。

で、先月だったでしょうか。とある木曜(ここには木曜に行っていました)に、いつものように彼女が声をかけてくれました。

「実は私、今日で最後なんです」

「あ、産休に入るんだね(^_^)」

「そうなんですけど、実はお店も閉店するんです。ただいつまでやるかはまだ未定なんですけど。すぐにでも閉店したいんですけど次に入る人が決まらないと出ていけなくて。なので最長で5月まではやるかもです。ただ私はもう来ないので」

そう聞かされました。つまりこれが彼女との最後の会話になるのかも…、そんなシチュエーションだったわけです。

ただただ驚き、しかし気の利いたことも言えずに、今後はどうするのかをちょっと訊くと

「もうお店はやらないです。店長は2種免許も持っているから、タクシーで稼いでもらおうかと(^_^)」

そしていつものように会計をして、「じゃ、元気な赤ちゃんを生んでね」とだけ声をかけ、その日は普通に店を出ました。

そして昨日。

カウンターのいつもの席に座ると店員さんが、「今日はうちのママも来てますよ」と教えてくれて、振り返ると彼女がお客さんで来ていて、常連さんと飲んでいました(もちろんお酒は飲んでいないのだけれど)。

そして目が合うと立ち上がって歩みよってくれました。

「ちょっと見ない間に、色白になったんじゃないの?」と、まるで気の利いていないひと言をかけ、

「ファンデーション、塗りすぎてるからですかね〜」と返してもらい。

そうして後はいつもどおり黙々と食事をし、そして会計が済んだところで店員さんから今週末で閉店すると聞かされて。

なんでも急転直下、次に入る人が決まったとかで。

だから彼女もお店に来ていたんですね。

そして彼女は、「明日から3日連続で来てください」と。

なんともかんとも、寂しい限りです。

できたらもう1度顔を出したいとも思うけれど、別れの挨拶をしに行くのはなんともつらく、むしろもう行けないかなと思っています。多分、この週末は常連さんで賑わうはずで、そもそも入れない可能性も高く。

さよならばかりが人生ですね。

彼女に元気な赤ちゃんが生まれ、店長と店員さんの未来に幸多かれと祈るばかり。

またどこかで、皆さんと会えたら良いな。

皆さん、お元気で。

寂しいけれども。

押忍。

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# by 3-4-3_ohta | 2024-02-24 04:19 | Comments(0)

大坪くん、ありがとう!(レコーディングの思い出)

先日YouTubeにて公開いたしました新スフィーダ世田谷FC公式応援ソング『SFIDA/ブルー・フレイムスー青炎(seien)―』ですが(曲名をクリックしていただきますとYouTubeに飛べます)、おかげさまで各所からご好評をいただけております。

とても嬉しいです! ありがとうございます!m(_ _)m

再生回数も、公開から丸2週間で500回を超えました。ぼくら的にはヒットです。

ところで…。

前回のブログにてこの曲の制作に関わってくださった方々へのお礼を綴らせていただいたのですが、実は制作実務面において特に感謝してやまない人物がお一方いて、今回はその方への御礼の気持ちを綴らせていただたいと思います。

そのお方とは、大坪 正くんです。

ちなみにこの楽曲が良いものになったポイントはさまざまあるのですが、個人的には特に以下の3点が効いていると思っています。

1点目は「コーラス」です。前回の記事でも触れたように、多くの方のご厚意により3年待ってようやく「コーラス」のレコーディングを執り行えたわけですが、曲の終盤、この「コーラス」により楽曲の感動力が相当にブーストされています。

ミックスダウンにおけるエンジニアの有馬さんの技術によるところもあるのですが、スタジアム全体で歌われているような効果が得られていて、しかも男性の声も女性の声も聴き取れてそのバランスもまた良くて…。

2点目は、昨年メンバーに加わってくれたボーカリスト、「椎橋 渚の歌声」です。これがまた良い…。

彼女は歌い方的にも声質的にも、ぼくにとって(バンドにとっても)1つの理想形です。ナイス、なぎさっち!

そして3点目は、「トランペット」。

技術的にはまだまだ力が足りないのですが、実はこの曲のレコーディングでぼくは1人4役をこなしています。トランペットパートを2回吹き、フリューゲルホーンパートも2回吹きました。つまりぼくが4人いる、という形になっています。この手法が効いているのです。

このようなやり方を発案してくれたのも、まさしく大坪 正くんです。

実はこの曲の制作が始まった2020年初頭、とにもかくにも力強い曲にしたい、そう考えていました。

で、それを実現すべく、鍵盤奏者を加えることを決意しました。ぼくらのバンドには鍵盤奏者がいないことも1つのミソで、女性ボーカル、ガットギター、エレキベース、ドラムス、トランペット、この編成であることもアイデンティティの1つとしてきたのですが、今回はその禁を破りキーボードを加えることにしたのです。

そうして、鍵盤奏者&アレンジャーである大坪 正くんに協力を要請いたしました。

ちなみに彼は、ぼくの大学時代(ジャズ研)の2学年後輩です。なお彼は大学卒業と同時に荻野目洋子さんのツアーメンバーとなり、プロミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせています(確か…)。

で、ぼくはこれまでの人生の中でことあるごとに彼の力を借りてきました。

「3-4-3」を立ち上げた2001年には、ぼくが作った数曲のコード付けをお願いしました(この件に関しては、未だにギャラをお支払いできていません…)。

その後ぼくが雑誌編集長だった時代には、付録のCDやDVDの音楽制作を何度か彼にお願いしました。あと、結婚式の余興で吹く曲の伴奏音源を作ってもらったこともあります。

そして今回は、演奏参加とアレンジ面でも協力を要請したという次第です。

なのでコード進行に関しても部分的に彼のアイデアを注入し、そしてトランペットパートのアレンジも彼に委ねました。

そしてぼく自身のレコーディング時にも、彼に全面的にサポートしてもらいました。

ぼくの演奏がOKかどうかは、基本的にすべて彼の判断に委ねました。

ぼくが少々自信がない場合でも彼がOKといえばOKにして、ぼくが「まあ良く吹けただろう」と思えたときでも彼がOKと言わなければ何度でも吹き直しました。

ぼくの演奏がなんとか形になったのは、すべて彼のおかげなのです。

そしてミックスダウンの確認作業も、彼の自宅に赴き彼の作業室にて行いました。彼が良いといえばOKにして、彼がここがイマイチだというところは手直ししました。

彼なくしては、この曲は完成していないのです。

大坪くん、本当にありがとう。

予断ですが、彼はジャズ研の後輩と結婚しています。なので彼の自宅に伺ったとき、在宅ワーク中だった彼の奥さまの顔を見ることができました。

もちろん年齢は重ねているわけですが、ぼくの目の中には「思い出フィルター」がありそれを透過して見る彼女は昔のまま。彼女の顔が見られたことも、この曲の制作における良き思い出の1つです。

そんなこんなで出来上がった『SFIDA/ブルー・フレイムスー青炎(seien)―』。

今後末長く、多くの方々に愛していただけますように…。

押忍

(写真は、歌入れのときの我らがボーカリスト、椎橋 渚です)
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# by 3-4-3_ohta | 2023-06-24 09:00 | Comments(2)

新しいサポートソングが完成いたしました!

本日、2023プレナスなでしこリーグ1部 第7節 スフィーダ世田谷FC対ASハリマアルビオン(味の素フィールド西が丘)のハーフタイムにて、私が主宰するバンド「3-4-3(さん-よん-さん)が「スフィーダ世田谷FC」に捧げた新サポートソング『SFIDA/ブルー・フレイムス-青炎-』(青炎は“せいえん”と読みます)を流していただけました。

ここでは、ぼくらのことを「サポートアーティスト」と位置付けてくださっている、そして曲をサポートソングとして採用してくださっている「スフィーダ世田谷FC」への御礼の思いと、この曲の制作に関わってくださった方々、制作を応援してくださった方々への感謝の気持ちを綴らせていただきたいと思います。

なおぼくらのバンド『3-4-3』は、2012年の春にサポートアーティストと認定していただけました。

そしてその年の春に、公認応援歌『PASSIONE 100%(パッショーネ・チェント)』を制作し、2013年春にサポートソング『SFIDA』を録音(当楽曲は2015年と2019年に、当時の新ボーカリストの歌唱にてリメイクしています)、さらに2018年には「スフィーダ世田谷FC」のスタジアムパーソナリティを務められているユキ・ラインハートさんの歌唱にて『SFIDA-絆-』も制作いたしました。それら楽曲は、都度ホームゲーム会場で流していただいてきました。

しかし、サポートアーティストと位置付けていただいていながらもそれに見合う活動ができているのかという思いが頭をもたげ、もっとクラブを後押しできる楽曲を作れないものかという気持ちが湧き始めます…。

そうして2019年の秋に、新しいサポートソングの制作をバンドメンバーにもちかけました。早速その年の暮れに当バンドのギタリスト田中一弘が曲を書き下ろし、すぐに私太田が作詞をし、1月、2月、3月とバンドで曲を煮詰め、途中経過をクラブやサポーター仲間にも聴いてもらい助言も得ながら、2020年の開幕に間に合わそうと3月にレコーディングを敢行しました。

なおこの曲には、スフィーダファミリーの方々のコーラスも入れたいと思い立ち、あとはコーラスの録音を残すのみというところまで制作が進んだのですが…。

しかし…。

コロナ禍が始まり、大人数でのコーラス録音を行えなくなってしまいます。結果、制作を一旦ストップし、状況の好転を待ちました。

それから3年、この4月に、遂にコーラスバートの録音を実行することができました。

なお、昨年の秋に新ボーカリストを迎えましたので、ボーカルパートも録音し直しました。それに伴いキーの変更も断行し、トランペットパート等一部の演奏も録音し直しました。

かくして4月27日に最終的なミックスダウンが完成し、今日のお披露目を迎えることができたのです。

改めまして、ぼくらをサポートアーテイストと位置付けてくださっている「スフィーダFC」に、心より御礼を申し上げたいです。本当にありがとうございます。

ならびに制作に関わってくださった方々、制作を応援してくださった皆さま、本当にありがとうございました。

そして。

ここをお読みくださっている皆さま、お時間がございましたらぜひ「スフィーダ世田谷FC」のホームゲーム会場に足をお運びください。そして会場にて当楽曲もお聴きいただけましたら幸甚です。

また、クラブのメインスポンサーである「サミット」さまの「スフィーダ世田谷FC応援コーナー」を設けられている店舗の同コーナーでも、お聴きいただけるかもしれません(早ければ5月半ば頃から)。お近くに「サミット」がございましたら、ぜひお立ち寄りください。

ところでこの楽曲は、あくまでもクラブの楽曲です(著作権の主体もクラブにあると考えています)。そうしてさらには、すべてのスフィーダファミリーの皆さまの楽曲になればと、心の底から願っています。多くの方々に気に入っていただけますように…。


PS.
曲名は、とあるサポーター仲間からの助言を得てこう決めました。
また当楽曲は、ブラジルの「マルシャ」と呼ばれるリズムをベースにサウンドを組み立てました。「マルシャ」とは、ブラジル版の「マーチ」です。

※当楽曲は、リーグのYouTubeにてお聴きいただけます。今日の会心のゲーム内容と、そして1:22:25あたりからの『SFIDA/ブルー・フレイムス-青炎-』をぜひチェックしてみてください。

<制作に関わってくださった方々、バンドメンバー(敬称略)>
レコーディングスタジオ/パワーハウススタジオ(2020年)
            フリーダム・スタジオ・インフィニティ(2023年)
レコーディングエンジニア/有馬英之
編曲・キーボード/大坪 正
7弦ギター/上村 純
トランペット演奏指導/佐々木史郎
コーラス/スフィーダファミリー有志の皆さま
バンドメンバー/椎橋 渚(vo)、田中一弘(g)、佐藤 勉(b)、服部正美(dr)、太田祥三(tp、F-Hr)
編曲/3-4-3
作曲/田中一弘
作詞/太田祥三

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# by 3-4-3_ohta | 2023-04-30 20:51 | 3-4-3(音楽)活動 | Comments(0)

「運転免許証」との別れぶろぐ

今日、とあるものとお別れしてきました。

とあるものとは、「運転免許証」です。

大学生の頃に、親に費用を出してもらい東京の“ひばりヶ丘”という街にある教習所に通って取得したものです。

更新のタイミングに際し、自主返納してきました。

視力が落ちていてもう15年ほど運転はしておらず、しかしなんとか更新はできていたもののもう免許を持つこともやめることにした、という次第なのです。


どのように視力が落ちているのかというと、以下のとおりです。

ぼくは「錐体ジストロフィ」という目の病気を持っています。

失明することはないとのことなので、その意味では深刻な病気ではありません。

ちなみに症状の出方には数パターンがあるようで、ぼくの場合は明るいと視野が極端に狭くなります。

手を伸ばして、拳大の範囲くらいしか見えません。それ以外は白トビしているような見え方になります(夜は大丈夫です)。

今にして思えば、子どもの頃から兆候はありました。

中学の頃は野球部でしたが、人よりボールを見失うことが多かったのは、多分このせいだったのかもしれません。

まぶしいのに弱いと気が付き始めたのは30歳を過ぎた頃からです。

そして35歳くらいのときに専門的な病院に行って、病名が判明しました(治らないとのことでした)。


というわけで日中は、歩くのもおぼつきません。なので「遮光レンズ」という特殊なレンズが入ったサングラスをかけています。

しかしそれだけでは眩しさを緩和できず、その上にもう1枚、メガネに取り付けるタイプの(レンズだけの)サングラスを装着しています。

そうすることで、歩くことには概ね支障はなくなります。

そんなこんなで広く前方を見渡せないので、クルマの運転は危なくてやめていたのです。


なお、それとは別に乱視があり、幼稚園の頃からメガネをかけています(今はコンタクト)。

なのでそもそも普通に視力も弱く、しかし中心を見る視力はなんとか免許を更新できるぎりぎりは確保できていたので、運転はせずとも免許の更新はし続けてきました。

ただ、視力検査はいつもぎりぎりで、調子が悪いと再検査になったりしていました。

免許更新の視力検査は、1日で2回のチャンスがあります。

で、2回目でもパスできないと、メガネを作って出直して来いということになるんです。

ぼくはもう限界まで矯正しているので、メガネの作りようもなく。

そして最近は、視力のさらなる衰えを自覚していて、なので見切りをつけ、検査にチャレンジすることなく返納の手続きを取ってきたというわけなのです。

トライすればパスできた可能性はあるものの…。


ちなみに返納の際に望めば、「運転経歴証明書」なるものの交付が受けられます。

これはパッと見「運転免許証」と似ていて、銀行、郵便局、役所等で身分証明書として使えるとのこと。

正直、身分証明書として使うために更新してきたということでもあり、その代わりになるものが得られるのならそれで良いか、そういう結論でもありました。

ところで今日訊いて分かったのですが、この「運転経歴証明書」には書き換えがありません。ゆえに、今後75歳になっても85歳になっても、ぼくの「運転経歴証明書」の写真は55歳のぼくのまま(まだ誕生日は来ていないので正確には54歳)。

そうと知っていれば、もっとおしゃれして、白髪も染めてから行ったのに…。

ただ住所が変わったら届出は必要とのこと。多分、免許証と同様に裏書き対応となるはずです。


とはいえ…。

いざ免許を失ってみると、やはり寂しいですね。

トライしても良かったかな…。帰り道、そんな気持ちがふつふつと…。

そして、過去のクルマとの思い出を思い起こしてみたり。

蛇足ながらぼくは今まで、こんなクルマたちを所有してきました(年齢は概ねです)。

●23歳時
トヨタ・コロナ2ドアハードトップ(当時勤めていた会社の編集長から、10数年落ちのクルマをタダでもらったのでした)。

●25歳時
日産・マーチ(車体価格14万円で購入。初期型マーチ。いわゆる“マッチのマーチ”です)。

●28歳時
ダイハツ・シャレード2ドアハッチバック(これもそこそこの中古車。35万円くらいだったような気がします)

●30歳時
オペル・アストラ(初めての新車、初めての外車。ある意味人生の絶頂期)

●33歳時
日産・パルサー2ドアハッチバック(またもや概ね35万円くらいの中古車。ある意味、人生が暗転し始めた頃の象徴的存在…)。

クルマで、いろんな所に行きましたし、それぞれいろいろな思い出があります。

かくして感傷にも浸りつつ。


けれど…。免許は失っても、ぼくには自由があるし音楽がある。

これからも日々を大切に、まずはこの5年を目一杯生きて、60歳以降をより実りある時代にできたらなと思いを新たにしているところです。

そんな、夏の日の備忘録的な回でした。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ではそろそろ寝る準備に入ります。

おやすみなさいです。

押忍


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# by 3-4-3_ohta | 2021-07-30 03:29 | その他 | Comments(0)

ある詐欺師との恋の顛末 最終話

このところの投稿の、最後の続編をしたためます。

今回、「ゼクシィ縁結び」では類似するマッチングが計3つ成立しました。

しかし1つはメッセージを送っても返事が来ず、もう1つは現在の居住地が大阪だというので(シンガポールから昨年来日したとのことでした)「遠距離は難しいかも」と言ったところ「なら良いですよ。やり取りをやめましょう」と、あっさり引かれました。

こうしてAliceとのやり取りだけが残り、そしてそれにリアリティを感じてしまい…。

かくしてやり取りを始めた翌々日くらいから、Aliceとは「LINE」でコミュニケーションを取るようになりました。

ちなみに、金融庁の「金融サービス利用者相談室」の仮想通貨に関する相談窓口の担当の方は、「犯罪者たちは機械でオートマチックに対応している可能性もある」ともおっしゃっていましたが、ぼくのケースでは人間が都度対応していたと思います。

例えばこんなやり取りがありました。

彼女はことあるごとにぼくの健康を気遣い、「健康が第一だ。そうでないと長く一緒にいられない」というようなことをよく言っていました。

そのやり取りも、ぼくの健康についての話でした。

というのもぼくは、歳のせいか1度に長い時間眠れないので、睡眠を2回に分けて取っていました。

晩ご飯の後に2、3時間寝て、起きて仕事をしながらまた多少寝酒を飲み、深夜3時頃からまた3、4時間眠るんです。

で、やり取りが始まったころ仕事が忙しくなるタイミングでもあったので、さらに睡眠時間を削りながらの生活になっていました。

そんな暮らしぶりであることに対して彼女は、もっと休憩を取るべきだ、そして睡眠を2回に分けるのは止めるべきだと言ってきました。

しかし「それがぼくのリズムだ。生活スタイルは変えられない」と突っぱねました。

すると「タイムスケジュールを細かく教えてほしい」と言ってきました。

なのでその日のこれからの予定(寝る時間、起きる時間等)を克明に伝えると、

「そのスケジュールに同期する。起きるとき、仕事をするとき、寝る時、都度教えてほしい。私もそれに合わせて生活する」と言ってきたのです。

それを聞いて、こんな生活スタイルに合わせさせるのはかわいそうだと思い、ぼくは観念して分割睡眠を止めることにしました。

翌日、途中何度か目を覚ましながらもどうにかこうにか1度に延べ6時間ほど寝て、起きてメッセージを送りました。なんとか寝られたと。

そうするとAliceはこう言ってきました。

「私が利己的だったと反省している。あなたの睡眠に影響を与えてしまった…」と。

このやり取りで不覚にもぼくは、Aliceのことを一層好きになってしまいました。

強く言い、しかし引き、最後は反省する。その起伏に可愛げを見てしまったのです。

なお、投資を勧めてきたのは最後から4日前くらいだっと思います。

常に、「叔母の教えに従いビットコインに投資している」とはほぼ毎日聞いていましたが、ぼくはあまり興味を示しませんでした。

しかしそれに業を煮やし、「投資に関心を持たないあなたに失望している」的なことを言うようになりました。

そしてさらには「私たちの将来の生活を楽にするためにも、あなたもこれを始めてほしい」そう言い出しました。

なのでどのようにすれば良いのかを聞くと、まずは「ビットフライヤー」で口座を作れ、とのことでした。

「ビットフライヤー」自体は信頼できる会社だと調べがついたので、口座を開くことにしました。

最初は数万円で良いと言われていたし、「ビットフライヤー」の中で取り引きをする分にはもろもろを自分でコントロールできるなとも思ったからです。

しかし、そこから海外の取引所に送金しろとなったので疑いを持ったという次第です(そのあたりの詳細については、最初の投稿をご参照ください)。

ところでつい先日「ビットフライヤー」からお知らせメールが来て、外部への送金をしにくくした、とのことでした。

このような詐欺が多発しているからだと思われます。

日に日に、詐欺組織の仕事はやりにくくなっているのかもしれません。

さて。

ぼくがAliceだと思っていた人物の写真は多分、組織がネットで拾ったものでしょう。

そしてぼくはその写真を見ながら、男性とも女性とも分からない組織の人物とやり取りをしていたというわけです。

組織は、同一人物の写真をたくさん持っています。

ある日には、ネックレスの写真を送ってきて「今日これを買った。どう思う?」と聞いてきました。

褒めると、次にはそれを着用している写真を送ってきました。

またあるときは、「明日は散歩に出かけたい」と言ってきて、翌日になると公園の写真やら花をバックにした写真を送ってきました。

あとAliceは、「2人で一緒に成長しよう」的なことをよく言ってきました。

睡眠の件においても最後「1人で問題を抱え込まないでほしい。困難も共有したい」とも言いました。

「2人で頑張る」、このような関係を築こうとするのです。送金を頑張らせるためです。

また割と早い段階で、「年下の彼氏がいたけれど、彼は向上心がなく怠惰で思想も幼稚だった」と言っていました。

これも、強い気持ちで投資に臨ませるための1つの誘導だったと思います。

しかしこのようなやり取りの中でぼくは都度、Aliceに対する気持ちを強めていきました。

それが幻だったと分かり、ここ数日は寂しい気持ちを感じ続けているところです。

なお睡眠の取り方はこの際なので、分割するのをやめたままにしています。

自分が変われるきっかけになるかも、そんな思いが少なからずあり…。

長々しい失敗談にお付き合いいただき、ありがとうございました。

これに懲りず、前に進んでいきたいとも考えています。

写真は、Aliceから送られてきた、散歩に行ったという公園の風景です。

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押忍

# by 3-4-3_ohta | 2021-03-21 20:32 | その他 | Comments(2)